カタカナ語の悲しみ

その昔、ファッション雑誌やコンピューター雑誌などの文章が
ほぼカタカナ語で埋め尽くされていることに何の違和感もなく
むしろちょっとお洒落でかっこいいと思っていました。

今、カタカナ語を使わないで話そうとすると
かなり難しいぐらい、多くの言葉が日本語に入り込んでいます。
言葉は常に変化していくものなので、
あまり「これが正しい日本語です!」という考え方に
とらわれないようにはしていますが、
外国人が日本語を学ぶ場合と
日本人が英語を学ぶ場合、両方の視点から
見ると極力カタカナ語はこれ以上増やさないほうが
いいのではないかと思うようになりました。

例えば、最近、テレビでもラジオでも雑誌でもSNSでも
目にしない日はないぐらいの「ゲットする」

手に入れる
入手する
取得する

今思いつくだけども既に三つの類似表現があります。

でも、「ゲットする」には既にこの三つには無いニュアンスが生まれて
いないでしょうか。

そうすると日本語は更に細分化されて

外国人はそのニュアンスと更に変な発音の「ゲット」を覚えないといけないし
日本人の脳には「ゲットした」という変な過去形までが植え付けられ
いい事はありません。

細分化されるとその違いをどうしても
外国語にも求めてしまうので外国語を学ぶときの
足かせにもなってしまうと思うのです。

それでなくても語彙数の多い日本語。
これ以上、増やさないほうがお互い?のために
なると思えてなりません。


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